【闘病から社会復帰へ ― 私が生き直した理由】
私は36歳のとき、進行したがんが見つかり手術を受けました。
翌年には転移が判明し、抗がん剤治療が始まりました。抗がん剤治療は想像をはるかに超える過酷なものでした。
1週間、24時間続く点滴。その後10日から2週間ほど経つと、白血球や免疫力が一気に下がり、感染を防ぐため隔離病室に入る生活を繰り返しました。
1クールは4〜5週間。その治療を何度も繰り返しました。一度がんは消えます。
しかし、時間が経つとまた同じ場所に現れる。希望と絶望を何度も行き来する日々でした。
命の危機
特に危険だったのは二度あります。4クール目の頃、腹水が大量に溜まり、命の危険な状態になりました。
抗がん剤で体内には大量の点滴が入る一方、体は水分を排出できなくなっていました。お腹は限界まで膨れ、何十リットルもの腹水が溜まっていたと思います。針で抜く処置をしても、抜きすぎれば衰弱してしまう。
「もう助からないかもしれない」そう思われる状態でした。
それでも私は、絶対に生きると決めていました。
当時、子どもはまだ4歳と8歳。
ここで死ぬわけにはいかなかったのです。
奇跡的に治療が効き始め、少しずつ体は回復しました。
しかし帯状疱疹や血栓など、次々と新しい危険が襲いかかりました。今振り返っても、あの時生きていたこと自体が奇跡だったと思います。
絶望と、家族の言葉
治療は続き、再発も繰り返しました。
17クールに及ぶ抗がん剤治療。体は限界でした。
ある日、私は妻にこう言いました。
「もう無理かもしれない。今回はダメだと思う」
子どもたちを父親のいない子にしてしまうこと
残してしまうことへの申し訳なさで、涙が止まりませんでした。
その時、妻はこう言いました。
「今までも乗り越えてきたじゃん。だから大丈夫。絶対に大丈夫。」
その言葉が、もう一度立ち上がる力になりました。
家族がそばにいてくれること。
それが、どんな薬よりも強い支えでした。
孤独との闘い、免疫力がほぼゼロになった私は、厳重な無菌室で過ごしました。
二重の扉に隔てられ、外の音もほとんど聞こえない空間。
看護師さんが来る時間以外、人と会うことはありません。
今のようにビデオ通話もない時代。
孤独と閉塞感は、想像以上に心を削りました。
食事もできず、水も飲めない。
吐き気と衰弱の中で、ただ時間が過ぎるのを待つしかありませんでした。
生きることが、こんなにも大変なのか――
その時、初めて本当の意味で理解しました。
生きるという奇跡、抗がん剤はがん細胞だけでなく、正常な細胞も壊します。
白血球が減り、起き上がることすらできなくなる。その時、気づいたのです。
私たちは普段、無数の細胞に支えられて生きている。
何気ない日常が、どれほど奇跡的なことなのかを。
だから私は強く思うようになりました。生きられる人は、生きてほしい。
命を絶ってほしくない。生きているだけで、本当にすごいことなのだから。
もう一度、生きる理由
闘病中のベットの中で小児がんで亡くなる子のをTVを見ました。
なぜあんな小さい子が生きたくても生きられないのでろう、、、
自分は治療を続けて生きられる
その時、自分に問いかけました。
「自分は何を弱気になっているんだ」
生きるチャンスを与えられているなら、最後まで生き抜こう。
そしてもし生き延びられたなら、
誰かのために生きようと決めました。
社会復帰、そして「写真」長い闘病を経て、私は社会復帰しました。
元々カメラマンだった私は、もう一度写真の仕事に戻りました。
そして考えました。自分にできることは何だろう。
行きたくても行けない子どもたち、
家庭環境に恵まれない子どもたちのために、
写真を贈ろう。
2015年頃から、児童養護施設や特別支援学校で、
卒業記念写真などをボランティアで撮影する活動を始めました。
名前は「ふぉとぎふと」。
写真には、人を支える力があります。
過去の写真が、未来を生きる力になることがある。
私自身が、それに救われたからです。
最後にがんの病床から立ち上がり、
私はもう一度人生を生き直すことができました。
小さな活動かもしれません。
それでも、誰かの笑顔につながるなら意味がある。
写真の力が、人から人へ優しさをつないでいく。
そんな世界になったらいいと、心から思っています。
これが、私の復活の物語です。
